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陪審制度の基礎知識

『国vs伊藤−−陪審裁判その実践』(イクオリティ、1989 年)の抜粋

1.陪審裁判とは

陪審裁判とはなにか
 裁判といえば,遠山の金さんでお馴染みのお白洲を思い出します.遠山の金さんのドラマのクライマックスは,きまって,お奉行の詮議にぬれぎぬであるとシラを切る悪代官と越後屋に向って,お奉行こと遠山の金さんが,いきなり片袖脱いで代官らに背中の刺青(いれずみ)を示し,「この桜吹雪が目に入らぬか」と小気味の良いタンカをきりますと,さすがの悪代官と越後屋も最早これまでと観念して「ははっー」と平伏する,という場面となっています.
 ここでは,遠山の金さんは,裁判官であるとともに,捜査官でもあり,また訴追官でもあるのです.
 もちろん現在の裁判では,判決を言い渡す裁判官と,事件を捜査して裁判を提起する検察官とは明確に区別されておりますし,行き過ぎた捜査や誤判を防ぐために,裁判で取調べをすることのできる証拠についても一定の要件が定められています(証拠の許容性).
 ところで,裁判手続は,ある人がこれこれの犯罪を犯したとして裁判所に裁判を求める検察官の公訴提起(起訴)に始まります.そして,検察官は起訴状に書かれた犯罪事実を証明するために,捜査によって収集した証拠の取調べを裁判所に請求します.
 裁判官は,検察官から取調べの請求があった証拠について,刑事訴訟法に照らし取調べが許されるものであるかどうかを判断して,許容性が認められる場合に限りその取調べをします(証拠採否の決定).
 これに対し弁護人は,アリバイなど被告人が検察官の主張している犯罪を犯していないことの証拠や被告人に有利な証拠の取調べを裁判所に請求します.
 裁判官は,同様に証拠の許容性を判断して問題がなければ証拠の取調べをします.
 そして最後に,裁判官は,取調べた証拠から被告人が犯罪を犯したと認められるかどうかを判断して(事実認定),犯罪を犯したと認められる場合には被告人をどのような刑によって処罰するかを決めて(量刑),判決を言い渡します.
 このように,現在の刑事裁判における裁判官は,「証拠の許容性の判断」「事実認定」「量刑の決定」という三つの作業を一人で行っているのです.
 これに対し,陪審裁判では,市民の中から選ばれた(選挙人名簿などに基づいて一定の手続のもとに選出されます)6名あるいは12名の陪審員が,裁判手続に参加して,右裁判官の三つの作業のうち「事実認定」,すなわち,被告人が本当に犯罪を犯したかどうかを判断するという大変重要な部分を担当するのです.
 したがって,陪審裁判における裁判官は,検察官,弁護人から取調べの請求のあった証拠が,それぞれ証拠としての許容性を有するかどうかを慎重に判断して,陪審員の「事実認定」が本来取調べることのできない証拠によって影響を受けることがないように,証拠の交通整理に専念することになります.そして,陪審員の評議の結果,被告人が有罪であるとの評決が出された場合には,被告人をいかなる刑に処するかその量刑を決定することになります.

陪審法廷(立命館大学・松本記念ホール)
戦前の陪審法
 ところで,かつてわが国でも陪審裁判が実施されていたということは,あまり知られていないことではないかと思います.わが国では,大正12年に陪審法が制定され,5年の準備期間を経て,昭和3年から同法が施行されて陪審裁判が始まりました.そして,昭和18年に陪審法が停止されるまで,484件の陪審裁判が行われ,そのうち無罪の評決が81件(無罪率17パーセント)出されたという実績があります.もっとも,陪審法が実施された直後の数年間は陪審裁判が比較的活発に利用されましたが,その後次第に利用件数が減少し,昭和18年に至り第二次世界大戦の激化に伴って陪審法が停止されてしまいました.しかし,「陪審法ノ停止ニ関スル法律」によれば,「今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ」(附則3号)と定められていますから,陪審法はあくまでその効力が一時停止されているだけで,その復活が予定されているのです.終戦後の憲法・刑事訴訟法の改正の際にも,陪審制の復活が見送られてしまいましたので,眠った状態のままで今日に至っているのです.
 しかし,戦前の「陪審法」も今日の時点で中身を見直した場合,次のようにいくつかの欠点を有しており,充分とは言えまませんでした.
 たとえば,民主的監視の要求される治安維持法事件や選挙関連事件など重要な事件が陪審から除外されていたこと,せっかく陪審員が出した評決でも裁判官の意に添わないときには何回でも更新されて再陪審に付されることになっていたこと,被告人の希望による請求陪審の場合には有罪とされたときに陪審費用の全部または一部を負担しなければならなかったこと,などです.再度陪審裁判の導入を考える場合には,当然にこれらの点は改善されなければならないでしょう.

陪審法をめぐる議論
 わが国の現在の刑事裁判が抱える様々の問題を指摘して,それを抜本的に改革するには陪審裁判の導入が望ましいとする論議は,これまでにも多方面から繰り返し論じられてきました.とりわけ,えん罪事件や否認事件に熱心に取り組んできた弁護士や,長年刑事裁判のあり方に悩み,よりよい裁判の実現に努力してきた裁判官などが,陪審裁判の導入を強く訴えていることは,陪審裁判を考えるうえで大変示唆に富むものといえます.また,欧米の実証的研究の紹介や陪審裁判の功罪を論ずるものなど,陪審裁判に関する研究も,既に数多く発表されています(詳しくは「陪審制度関連文献」を参照して下さい).
 もっとも,こうした論議も,残念ながらいまだ一部の法律専門家の議論にとどまっており,まだまだ一般国民の理解を得るに至っていないというのが現状です.

市民の裁判への不安
 陪審裁判の導入を批判する人たちの考えの中に,市民による裁判ということに対する漠然とした不安があるように思われます.
 たとえば,仮にあなたが刑事裁判を受ける立場になったとして,市民に裁かれるより専門家の裁判官に任せる方がなんとなく信用できる,という気持ちを持つことはないでしょうか.「市民が裁くのは日本人の国民性になじみにくい.」という意見は意外に根強いようです.
 法律家の中にも,「素人陪審員が職業裁判官よりも正しい事実認定をできるか.」とか,「情報氾濫社会では,陪審員はマスコミ報道に影響されて情緒的な判断をするのではないか.」といった同じような疑問を持つ人も少なくありません.
 わたしたちは,この疑問を検証するためにこそ,後述する模擬陪審裁判を上演することになったと言っても過言ではありません.本書をお読み頂ければ「陪審裁判は日本人の国民性になじまないのはないか」との不安がまったくの杞憂に過ぎないことをおわかり頂けるでしょう.


2.なぜ陪審裁判か

形骸化が進行している日本の刑事裁判
 わたしたちが陪審制度を真剣に考えるようになった一番大きな理由は,ひと言で言うと,いまの刑事裁判が余りにもひどいからです.このことを皆さんにわかっていただくために,いま日本ではどのようにして刑事裁判が行われているのかを一通り説明したいと思います.やや遠回りの説明になるかもしれませんが,わが国の刑事手続の現状はいままで国民の前に十分明らかにされているとは言えませんし,その絶望的な現状を知っていただく以外に,なぜわたしたちが陪審制の導入を必要と考えているかを皆さんにご理解いただくことはできないと思うからです.
 日本国憲法は,世界的にも他に例がないほどに詳細な刑事手続に関する規定を設けました.それは,戦前の日本で刑事手続における被疑者・被告人の人権が十分に守られていなかったという事実に対する反省のうえに立ってのものであることはいうまでもありません.憲法は,アメリカで発達したデュープロセス(適正手続)の保障の考え方を基本的に取り入れたうえ,不当な抑留・拘禁を受けない権利,不当な捜索差押を受けない権利,黙秘権,反対尋問権,弁護権,公平迅速な裁判を受ける権利等,刑事手続上の基本的人権を保障しています.1949年の元旦から施行された現行刑事訴訟法は,この憲法の規定を受けて,旧法を全面的に改正したものです.
 現行刑事訴訟法が施行されて40年経過した今日,憲法や刑事訴訟法が理想と考えていた刑事裁判はまったく実現されていないどころか,刑事裁判はますます形骸化の一途をたどっています.戦前の状態よりも悪くなっていることを指摘する人もいます(佐伯千仭「刑事訴訟法の40年と無罪率の減少」ジュリスト930―16(1989)).

逮捕・勾留
 被疑者の逮捕や勾留は「逃亡のおそれ」や「罪証隠滅のおそれ」を要件として,裁判官の発する令状に基づいて行われることになっています(憲法33条,刑訴法207条,60条).それは,逮捕・勾留というのは人間の自由を直接拘束する手続であり,歴史的にも圧政の道具とされてきた経験から,捜査機関から独立した国家機関である裁判官によって要件を慎重に吟味させるべきだからです.
 ところが,実際には,捜査官の請求を受けた裁判官は,ほとんど自動的に令状を発行しており(逮捕状の却下率は0.1パーセント未満ですし,勾留状の却下率も約0.3パーセントです.),「逃亡」や「罪証の隠滅」などおよそ考えられないような人まで逮捕勾留されています.

弁護人依頼権
 逮捕勾留された被疑者には弁護人依頼権が保障され,当然のこととして被疑者は,立会人なしに弁護人と面会する権利があるはずですが(憲法34条, 37条,刑訴法39条1項),逮捕された被疑者が捜査官に対して否認する供述をしていたり,共犯者がいるとされる事件では,弁護人との面会を拒絶したり,面会時間を1回15分くらいに制限したりすることが当然のことのように行われています.そして,このような弁護権の侵害に対して,裁判所に不服の申立をしても,裁判所はほとんどこれを認めません.
 そして,大部分の被疑者はこのようにして外界から遮断された状態のもとで,弁護人の援助を受けることもなく捜査官から取調べを受け,罪を「自白」します.朝から晩まで取調べが続けられることも非常にしばしばありますし,罪をなかなか認めないために,捜査官から罵声を浴びせられたり,時には暴行や脅迫を受ける被疑者もあります.そして,「認めれば釈放してやる」などと言われて,自白する例もあります.

保釈
 捜査が完了し,起訴された者には「保釈の権利」があることになっています(刑訴法89条).すべての人に行動の自由が保障され,すべての刑事被告人が裁判で有罪が確定するまでは無罪と推定されるという近代の民主主義国家においては,これは当然の権利と言えましょう.
 ところが,この保釈の権利もわが国では実際上否定されているのです.わが国の刑訴法は,その規定自体のなかに「保釈の権利」にかなり大きな例外を設けていますが,この例外規定を裁判官はほとんど思いのままに拡大解釈して,むしろ原則として保釈を認めないという方針で運用しているのです.
 たとえば,「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」がある場合には保釈を認めないことができることになっていますが,起訴事実を否認しているとか,関係者の供述に食い違いがあるというだけで,裁判官は「罪証隠滅のおそれ」があると言って,保釈申請を却下してしまうのです.保釈を認めるとしても,第1回公判前に保釈を認めることはほとんどありません.検察側の立証が終了するまでは,保釈は認められないのが普通です.裁判官は,要するに,すべての被告人は信頼のおけない人物であり,釈放すれば証人を脅したり,買収したり,証拠を隠滅したりするに違いないと考えているのです.
 第1回公判期日に罪を認め,検察側の証拠をすべて同意することを保釈の条件とする裁判官もいます.「自由の代償として罪を認めろ」と言うのです.保釈制度は自白を強要する道具になっているのです.
 公判中の保釈率は年々減少していき,地裁で25パーセント,簡裁で13パーセント程度になってしまいました.
 保釈を認められない被告人は,身体を拘束されたまま何ヵ月も,時には何年も裁判を続けなければなりません.このような被告人は精神的にも肉体的にも追い詰められた状態で裁判を続けるわけです.裁判の途中で諦めてしまう人もいます.身柄を拘束されたままいつ終わるかわからない裁判を続けるよりはさっさと刑に服した方がいつ社会に出られるか予想がつきますし,精神的に楽だからです.有罪でも執行猶予が確実な事件では,早期に釈放してもらうため,無実であっても罪を認めてしまう人がかなりいると思われます.

東京簡易裁判所(東京・霞ヶ関)

公判
 さて,公判そのものも無罪を主張する被告人にとってはほとんど絶望的なものです.
 戦前の刑事裁判では,公訴の提起と同時に捜査記録が裁判官に送付され,裁判官はこの記録を読んだうえで公判に臨むという実務が行われていました.これでは,裁判が始まる前に裁判官は捜査官側の資料によって有罪の心証を抱いてしまうという批判が当然起こりました.そこで,現行刑事訴訟法は,裁判が始まる前には裁判官は起訴状以外に目を触れてはならないという原則(これを「起訴状一本主義」と言います)を確立しました.
 刑事訴訟法の立法者たちは,有罪の証拠を見ないかぎり,被告人は有罪であるという予断を裁判官は決して抱かないであろうと考えたわけです.しかしながら,現実の裁判はこの前提自体に誤りがあることを示しています.
 保釈について述べたところからも伺えるように,裁判官たちは,起訴されたというだけで,被告人は有罪に違いないと考えます.被告人は警察官の前では自白しながら,裁判所では罪を免れるために平気で嘘を付く信頼できない人物である,釈放すれば証拠を隠滅したり,証人を脅したりするに違いないと感じているわけです.被告人に対してこのような感情を持っている人が,検察側だけでなく,被告人側の言い分も十分汲取った公平な裁判をすることを期待できるでしょうか.
 公判の冒頭で被告人が罪を否認しただけで,被告人に対する敵意をあらわにし,いきなり起訴状を逐語的に読みながら「これは認めるのか」「この事実はどうか」と,追及するように被告人質問をはじめる裁判官もいます.ある裁判官は,「まあ,そのように聞いておきましょう」と,皮肉をこめて被告人を壇上から見下ろします.刑事事件の公判を傍聴した人は,裁判官が被告人のことを全然信じておらず,最初から有罪と決めてかかっているとしか思えない場面を何度も見かけることができるでしょう.

「自白の任意性」をめぐって
 たとえば,「自白の任意性」をめぐる法廷での攻防はその典型的な場面の一つです.
 身体を拘束された被疑者の取調べは,取調べ室という密室で行われます.被疑者と捜査官の他に取調べの状況を観察している第三者はいませんし,取調べの様子を録画したり,録音したりすることも通常行われていません.法廷では,被告人が「怒鳴られたり,脅かされたりして,仕方なく自白した」と述べ,これに対して取調べを行った捜査官は,「自白を強要したことはない.被告人は,自ら進んで自白した」として,双方真っ向から対立する供述をすることがよくあります.この場合,他に決め手となる証拠がないとすれば,被告人の言うことと捜査官の言うことのどちらが真実かわからない,というのが「公平な第三者」の判断だと言わなければなりません.
 ところが,裁判官は,被告人の供述は捜査官の証言に反するかぎり疑わしいものと決めつけてしまいます.つまり,「被告人の供述は虚偽であり捜査官の供述は真実である」という原則のもとで事実を認定しようとするのです.したがって,この原則を覆すためには,被告人の方で捜査官の証言が嘘であり,被告人の言い分が正しいということを立証しなければならないのです.「密室」での出来事を第三者に納得してもらえるように立証することは非常に困難なことです.新聞などで時々自白の任意性を否定した事例が報道されますが,それはこの非常に困難な立証に成功した幸運な事件なのです.

証拠法
 戦後の刑事訴訟法は,憲法が保障するデュープロセスの一環として,主として英米で発達した証拠法を取り入れ,事実認定を誤らせるおそれのある証拠や不当な方法で採取された証拠を採用してはならないことを定めた一連の法則を規定しました.強制や拷問による自白など任意性に疑いのある自白の証拠能力を否定する原則や(319条),被告人側の反対尋問を経ていない「伝聞証拠」を証拠から排除する原則(320条)などがそれです.しかし,この人類の英知ともいうべき証拠法則も,わが国の刑事裁判ではまったくといっていいほど形骸化してしまっているのです.
 伝聞法則が形骸化している例を挙げましょう.刑事訴訟法は,伝聞証拠が排除されるという原則に対する一つの例外として,参考人の検察官に対する供述調書を挙げます.すなわち,証人が公判廷で,検事に対する捜査段階での供述と異なる証言をした場合(調書は取調室で第三者の立ち会いもなく,弁護人の反対尋問も行われませんし,参考人が述べた言葉が逐語的に記載されるのではなく,検事が要約的に作文しただけのものですから,伝聞証拠として証拠能力が否定されるのが証拠法の原則ですが),調書上の供述が公判証言よりも「信用すべき特別の状況」があるときは,例外的に検察官の供述調書を証拠とすることができることになっています(321条1項2号).
 この「例外規定」が濫用され,実際上は原則と例外が逆転してしまっているのです.つまり,証人が捜査段階では被告人に不利な供述を記載した調書に署名しながら,公判廷ではその内容を否定したり,実質的なニュアンスを変える証言をしたとしましょう.要するに,検察側の証人が法廷で検事の思う通りの証言をしなかったり,あるいは弁護人の反対尋問が成功して,証人が供述を変えたというような場合です.これはひと言で言えば,検察官の立証の失敗を意味するはずですが,日本の裁判では失敗でも何でもないのです.
 検察官は,この証人の捜査段階での調書を先ほどの「例外規定」に基づいて証拠として請求します.そうすると裁判官は,ほとんど例外なく「調書のほうが理路整然としている」「証人は被告人の前では十分に証言できない」「調書は事件から間がない時期に記憶が新鮮なうちに作成されたものであるから信用できる」などと,どうにでも言えそうなことを述べて,調書を証拠として採用するのです.
 検察官が捜査の過程で犯罪を立証するに足りる調書を作っておけば,ほとんど被告人の有罪は決まったも同然なのです.なにしろ,検察側の証人が被告人に有利な証言をしても構わないのですから.公判廷での証人尋問は,調書を提出するためのただの儀式なのです.このような傾向の中では,検察官は公判廷での尋問技術に磨きをかけるよりは,取調べ室という密室の中で,多少無理してでも有罪を立証すべき供述を得ようとするでしょう.

有罪率99.8パーセント
 わが国の刑事第一審判決の有罪率は年々上昇していき,遂に99.8パーセントを超えました.これは文明諸国がいままで経験したことのない数字でしょう.わたしたちは,この数字の中には少なからぬえん罪が含まれていると確信します.近年,死刑事件を含む著名再審事件で次々と無罪判決が確定しています.しかし,名もないえん罪者達の大部分は,日本の刑事裁判に絶望し,裁判に疲れ果て上訴すらしないで諦めてしまうのです.
 いままで指摘したように,日本の刑事手続は,初めから最後まで徹底して被告人を有罪とすることを目指して運用されているのです.えん罪は偶然に起こるのではありませんし,戦後の混乱の中で起こった一時的な現象でもありません.わが国の裁判は構造的に,日々えん罪を生み出しているのです.

なぜ刑事裁判は形骸化したか
 このような刑事裁判の絶望的な姿は,何に由来するのでしょうか.これは「国家権力とはなにか」「刑事裁判の目的はなにか」という問題にも通じる非常に大きなテーマであり,いろいろなアプローチの仕方がありえると思いますが,わたしちは有罪無罪を決する事実認定者である裁判官のありかたに着目します.

「ジャパン アズ ナンバー ワン」
 じつを言うと,現職の裁判官たちはいまの刑事手続が「絶望的」であるなどとはまったく考えていないのです.捜査官が密室の中で何週間もかけて作成した供述調書を沢山証拠として採用して,被告人の生い立ちから犯行の動機,手段などを捜査資料に基づいて詳細に判決書に記載するというやり方で事実を認定し,結果として100パーセント近い有罪率を達成する日本の刑事裁判を「精密司法」と言い,プライバシーの権利や黙秘権の保護のために捜査官の活動に制約を加え,捜査官の作った供述調書を証拠として採用することはほとんどなく,陪審による有罪無罪の評決に理由を付けることを要求せず,70パーセント程度の有罪率しか達成できないアメリカの刑事司法を「ラフ・ジャスティス(大雑把な司法)」などと呼ぶのです.そして,東京の治安の良さ・犯罪率の低さとニュー・ヨークの治安の悪さ・高い犯罪率とを対比し(人種構成や文化の違い,経済の動向の違いなどを度外視して),それらを刑事司法の運用の結果であると決めつけて,日本の刑事司法を賞賛するのです.おそらく,多くの裁判官は「アメリカの刑事司法は失敗である」と信じていることでしょう.まさに「ジャパン アズ ナンバー ワン」の思想です.
 無実の人に死刑判決が下されたという事実がたて続けに4回も明らかにされながらもなお,日本の刑事司法の姿を「絶望的」と考えるどころか,「アズ ナンバー ワン」と賞賛してやまない裁判官たちの姿の中にこそ,「絶望」の最大の原因があるとわたしたちは考えます.

裁判官の法意識
 裁判官は,その憲法上の職責として,捜査機関による人権侵害や違法捜査が起こらないように捜査活動を抑制し,公判においては最も公正な第三者として,違法に収集された証拠や誤判に導き易い証拠を排除することが期待されています.しかし,先に見たように,現実には裁判官はこの期待にはまったく答えていません.裁判官は,事前にも事後にも捜査活動をチェックすることを怠っています.その一方で,捜査官による弁護人の接見妨害を容認し,あるいは被告人の保釈を認めないというような仕方で,被告人側の防御活動をこそ抑圧しているのです.
 裁判官のこのような偏った態度は,一体何に由来するのでしょうか.
 裁判官を辞職して弁護士に転じ,「八海事件」「仁保事件」「狭山事件」等の弁護人として活躍し,刑事司法について多数の優れた著書を著し,晩年は陪審裁判の導入の必要を精力的に訴え続けた故青木英五郎博士は,裁判官在職中の1962年に「裁判官の法意識」と題する講演の中で次のように述べています.
 「現在の裁判所には,旧憲法の哲学をもった裁判官と,新憲法の哲学をもった裁判官とが不連続線をなしているといわれます.……問題は,これら戦後の裁判官が,戦前からの裁判官によってスポイルされるおそれがある,ということであります.ご承知のように,裁判官の官僚的統制は次第に強化される傾向があります.そいういう状況において,戦後の裁判官をスポイルさせないで,将来の大成を期待するということは,まことに重要な問題であろうと考えます.将来の日本の裁判所は,これら戦後の裁判官が,旧憲法的な法意識に対して示す抵抗の度合いにかかっているのではないかと考えられるのであります」(『青木英五郎著作集−1』(1986)33頁).
 この講演から4半世紀を経過した現在,青木博士の「期待」は裏切られ,「おそれ」が現実のものとなってしまったことは明らかです.最高裁を頂点とする「裁判所」という名の巨大な官僚機構がすでに完備され,任官拒否や再任拒否,あるいは任地や報酬上の差別が公然と行われるなど,裁判官に対する官僚的統制は完成の域に達しています.そのうえ,裁判所は法務省との人事交流を通じて,ますます検察庁寄りの姿勢を強める兆さえ見せています.最高裁調査官や札幌高裁判事などを歴任した後,大学教授に転じた渡部保夫北海道大学教授は「裁判官は称賛や感謝を国民の側ではなく裁判所内部や法務省,検察庁に期待するようになる.たとえば刑事事件の場合,有罪の方向で誤判しても決して昇進に影響しないが,検察に遠慮せず無罪を言い渡す人は,とかく出世しないという傾向がある.……最高裁の初代長官故三淵忠彦氏,4代長官故横田正俊氏は『国民のための裁判所』という理想を熱っぽく語られたが,最近の裁判所はこの言葉を口にすることが『きざ』に感じる雰囲気になってはいないか」と慨嘆されています(朝日新聞1987.11.26朝刊).
 旧憲法的な意識に支えられ,国民にではなく法務省や検察庁からの評価を自らのレーゾン・デートル(存在理由)と考える裁判官にとっては,捜査の結果を尊重し追認することこそ刑事裁判の真の目的なのであり,「犯人(とされる者)の処罰」へのプレッシャーの方が「無実の者を処罰しない」ことへのそれよりも切実に意識されることは当然と言えましょう.そして,法務省や検察庁への親和性は被告人への敵意・不信と裏腹のものであり,《捜査官にできるだけ多くの権限を与え,被告人の防御活動をできるだけ制限すれば,より多くの真実が明らかになる》という信念に繋がるのです.

現行制度の構造的欠陥
 さて,「裁判官の法意識」という問題のほかに,事実認定者としての日本の裁判官にはさらにいくつかの問題があります.
 日本の裁判官は,有罪無罪の事実を認定するという役割を負うと同時に,事実認定の基礎となる証拠の許容性を判断するという職責を負っています.たとえば,被告人が警察官の取調べに対して「わたしはAさんを殺しました」という自白を行い,その自白調書が作られたとします.裁判官は,被告人が本当にAさんを殺したのかどうかという判断を行う前に,問題の自白調書を証拠として採用することが適当かどうか(これを「証拠の許容性」とか「証拠能力」と言います.)を判断しなければならないのです.この自白の許容性を判断する基準として「自白の任意性」ということが問題となります.すなわち,被告人には黙秘権がありますが,警察官の取調べに際して,自由な選択によって黙秘権を放棄して,自らの意思で罪を告白したのであればその自白を証拠とすることに問題はありません.しかし,その自白が警察官の拷問や強制,約束等によって無理に得られた疑いがあれば,証拠として採用してはならないのです.
 裁判官は,自白以外にもすべての証拠について,その価値を検討する前に,その証拠を採用することができるかどうかを判断しなければならないのです.この二つの役割を一人の人間が両方とも適切に行うことができるでしょうか.
 「被告人はAさんを殺したのか」という問題を与えられた裁判官としては,被告人が自白したというのであれば,取りあえずその自白の中身を見てみたいと考えるのが人情ではないでしょうか.「被告人らしい人がAさんと口論しているのを事件の直前に見た」という参考人の調書があるとすれば,たとえその参考人が法廷ではそれと異なる証言をしたとしても(むしろそうであれば,なおさら)その調書を読んでみたいと考えるのが,事実認定という責任を負わせられた者のある意味で当然の心理ではないでしょうか.しかし,裁判の歴史はこの当然の心理を実践した結果,取り返しのつかない誤判が起こりうるという事実を示しています.だからこそ,一定の場合には証拠を見ることすら許さないという法則,すなわち証拠法というものを人類は何百年もかけて発展させてきたのです.
 やや比喩的に言うならば,日本の裁判官は,もしかすると毒を含んでいるかもしれないがとても美味しそうな匂いを放っている「証拠」という名の餌を前にした犬のようなものです.しかも飼い主は彼自身であり,彼は自分に向かって「お預け」を命じなければならないのです.日本の刑事裁判において,証拠法がほとんど骨抜きにされているのは,このような構造的な欠陥にもよるのです.

職業裁判官に予断・偏見は必然的
 裁判官は「事実認定のプロ」と言われることがありますが,果たしてそうでしょうか.「プロ」というからには専門的な訓練を受け,専門的な知識と経験がなければなりませんが,裁判官は「法律家」であり,法律家としての専門的な知識については一般の人々よりも優れていると言えるかもしれませんが,証拠という一定の情報に基づいて事実を認定する能力の点で,裁判官が普通の市民よりも優れているという根拠はどこにもありません.
 裁判官を何年か経験した人は,事実認定を普通の人よりも多く経験したということはできると思います.しかし問題はその経験の質です.
 無罪を主張する被告人は色々な弁解をするものですが,裁判官は,何度となく同じ ような弁解を法廷で聞かされるのです.そして,先に述べたようにそのうちの100パーセント近い事例で,被告人の弁解を退け有罪判決をしているのです.職業裁判官は,最初から耳にタコができた状態で被告人の弁解に接することになるのです.経験を積んだ裁判官であればあるほど,事件は新鮮さを失っていると言えましょう.そして,多数の手持事件を抱えた裁判官には能率よく事件を処理することが要求され,そのためには事件を一定のパターンに当てはめて処理するという思考が自然に身に着いてきてしまうのです.このような裁判官にとっては,1件毎の事件に,白紙の状態で予断を持たないで臨むということが,本人が意識するかどうかはべつとして,事実上困難なのです.
 しかし,事件はそれぞれ特殊であり,個々の被告人にとっては,その弁解が受け入れられるかどうかは,まさに死活問題なのです.
 「プロ」が行う事実認定には,最初からこのような限界があるのです.それにもかかわらず,わたしたちには,自分を裁く裁判官を選ぶ権利が保障されていませんし,個々の事件で,担当裁判官の予断の有無や知識・経験を吟味する手続も与えられていません.「裁判官は公正である」ということが,確たる根拠も,手続的保障もなく,擬制されているのです.

陪審は刑事裁判をどう変えるか
 青木英五郎博士は,遺著となった『陪審裁判』(1981年)のあとがきの中でこう述べています.
 「どれほど強く,われわれ国民が公正な裁判を『お願い』しても,裁判官に聴き入れてもらえないとすれば,われわれはいったいどうしたらよいであろうか.それは,われわれ国民が裁判官に委託しているはずの司法権を,われわれ国民が事実を判断する裁判官となることによって,われわれ国民の手に取りもどすこと以外にはありえないであろう.そして,このことが実現されるならば,われわれ国民は,われわれの税金で雇っているはずの『公僕』である職業裁判官に対して,公正な裁判をしてほしいという『要請』をする必要は,もはやいらなくなるであろう.冤罪を防止し,公正な裁判を確保するために,われわれに必要とされる努力は,陪審裁判の実現に向けられるべきであろう」
 要するに,青木博士は,公正な裁判を確保するためには陪審裁判を実現する以外にないと言っているのです.裁判官による裁判が絶望的であり改善の見込がないのならば,わたしたち国民が裁判官の手から司法権を取り戻すべきであるというのです.国民の手による裁判―陪審裁判とはどのような裁判なのでしょうか.

米国連邦最高裁(WashingtonD.C.)
陪審と参審
 陪審裁判とは,地域住民の中から選ばれた10人前後の陪審員が,証拠に基づいて評議によって被告人の有罪無罪を決定する裁判です(その手続の詳細については第三章を参照).評議の基礎となる証拠の採否は裁判官が行いますが,採用された証拠を評価して被告人が罪を犯したのかどうかを決定するのは,何の資格もない普通の市民である陪審員なのです.
 陪審裁判の起源はマグナ・カルタに遡ると言われていますが,イギリスをはじめ,フランス,ドイツなどヨーロッパ各国で行われるにいたり,植民地時代のアメリカに受け継がれ,司法制度の中核をなす制度として発展し,1791年制定の合衆国憲法修正6条は刑事事件について,陪審による裁判を受ける権利を基本的権利として保障するにいたりました.この権利は,連邦のみならず,州においても保障されます.
 現在陪審裁判が最も活発に行われているのはアメリカ(連邦及び50の州)ですが,イギリス,カナダ,オーストラリアなどの諸国でも実施されています.
 これらに対して,ドイツ,フランスや北欧諸国などで採用されているのは「参審」と呼ばれる制度です.参審制の裁判では,陪審裁判のように裁判官(証拠の採否,法律の説示)と陪審員(有罪無罪の決定)との明確な役割分担があるわけではなく,職業裁判官と一緒に「参審員」と呼ばれる数名の一般市民が合議をして結論を出すのです.参審制も「国民の司法への参加」という点では陪審制と共通のものを持っており,職業裁判官に司法を独占させている日本の現行制度よりは優れていると言えますが,不徹底な制度であると思われます.職業裁判官が参審員に影響力を行使しようと思えば,かなり自由にこれを行うことが可能ですし,また,先に述べたように,事実認定者と証拠の許容性を判断する者が同じである点に現在の刑事裁判の形骸化の原因の一つがあるのだとすれば,参審制にも同じ欠陥があると言わなければなりません.

陪審制の理念
 さて,陪審裁判を採用することによって刑事手続はどのように変わることが期待されるでしょうか.陪審は絶望的な日本の刑事裁判を救うことができるでしょうか.わたしたちは,憲法や刑事訴訟法の基本的な理念を生き返らせ,刑事裁判の形骸化に終止符を打つための最も効果的な方法は陪審裁判の実現であると考えます.陪審制とひと口に言ってもその運用の形態は様々であり(第三章参照),ルールの定め方や運用の仕方によっては弊害が生まれることは否定しません.したがって,どのような形態での陪審裁判が最もよいのかは研究の余地があるでしょう.しかし,いまの刑事裁判の形骸化を改善し,民主的で公正な刑事司法を実現するには,裁判の基本的なシテムとして陪審制度を採用する以外にないとわたしたちは信じます.
 アメリカの連邦最高裁判所は,1967年に下した判決の中で陪審制の意義を次のように述べています.
 「連邦や州憲法上の陪審裁判保障条項は,権力の行使についての基本的な態度──市民の生命や自由を剥奪しうる絶対的な権力を一人のあるいは一握りの裁判官の手に委ねることへの躊躇──を反映したものである.政府の他の分野(議会や大統領などを指す.)で典型的に見られることであるが,他からの抑制のない絶対的な権力への恐れというものが,刑事法の分野では,有罪無罪の判断にコミュニティが参加するという方法で表明されているのである.……刑事被告人に対して同輩による陪審裁判を受ける権利を保障するということは,腐敗しあるいは過度に熱心な検察官や,卑屈な,予断を持ったあるいは風変わりな裁判官から被告人を保護する貴重な安全装置を 提供することなのである」

(1) 違法・不当な捜査を抑制する
 陪審裁判の採用によって日本の刑事手続が具体的にどのように変わるのか,わたしたちが期待していることをここで簡単に整理しておくことにしましょう.
 陪審制の下においては,証拠の許容性を判断するのは裁判官ですが,最終的に証拠の価値を判断するのは陪審員です.陪審員は裁判官が一旦採用した証拠でも,価値がないと判断したり,そのような証拠を取り上げることが不当であると思うときは,証拠を全面的に無視してしまうことすらできるのです.たとえば,自白調書を裁判官が採用したとしても,陪審員は強制や誘導のもとで強引に得られたものだと判断すれば,その自白を無視してしまうことができるのです.
 ひと言で言うならば,警察官や検察官は市民である陪審員が理解し,彼らから支持を得られるような捜査を常に心掛けていなければならなくなるのです.陪審員たちは警察官と被告人の「水掛け論」では納得しないでしょう.
 戦前に日本で陪審裁判が行われていた時代に,実際にそういうことが起こりました.ある放火事件の裁判で,証人として出頭した警察官が「被告人は任意に自白した」と簡単に証言したのに対して,被告人が「この刑事が自白しなければ帰さないと言いました.……新聞紙に揮発油をそそいでマッチをつけたのだろうと自白の方法まで教えられました」と反発したところ,ある陪審員が「警察側証人は簡単に誘導尋問はしないとか,被告の言うところと違うと片付けてしまうけれども,被告の陳述の秩序立っているのに反して,それでは余りに物足らない.もっと吾々が成る程とうなづけるようには答弁できぬものか」と「苦言的質問」を発しました.結局この被告人は無罪になりました(熊谷弘「新聞報道を通じてみた東京最初の陪審裁判」判例タイムズ229―50(1969)).


(2) 手続を厳格にし,かつわかり易くする
 いまの日本の裁判所では,証拠書類の朗読を省略したり,実際には口頭での陳述が行われていないのに記録上行われたようにしたり,いろいろな手続の省略や擬制が頻繁に行われています.そして,素人の傍聴人はもちろん,裁判に慣れているはずの法律家ですら,傍聴席で裁判を傍聴するだけでは,法廷で何が行われているかほとんど理解できないのです.「手抜き」はどんどん進んで止まるところを知りません.ついに,ある簡易裁判所の判事は有罪判決の理由の言い渡しを省略してしまいました.
 陪審裁判では,手続の省略や擬制はほとんど行われないでしょう.双方の当事者代理人は,法廷で自分たちのやろうとしていることが陪審員に理解されなければ裁判に勝つことはできませんから,手抜きすることなく厳密に,しかもわかり易く手続を進めるように心掛けるでしょう.また,裁判官も,自分の行う訴訟指揮や決定,説示などを一々陪審員にわかってもらわなければ,仕事を進められなくなるのです.アメリカの弁護士でロー・スクールの教授でもあるローク・M・リード氏は,これをレストランの厨房にお客さんが入り込んできた状態にたとえています.レストランの厨房にはプロの料理人や皿洗いや支配人など身内の人間しかいませんから(プロの法律家しかいない法廷と同じように),かれらはお互いに自分達だけにしか通用しない暗号のような言葉を使ったり,手抜きをしたりして仕事をスムーズに進めることができます.しかしそこに素人の監視の目が入り込むことによって事態は一変するだろうというのです(リード,井上,山室『アメリカの刑事手続』(1987)237頁以下).

(3) 証拠法を生かす
 日本の裁判所では,憲法や刑事訴訟法が定める証拠法がないがしろにされているということは先に述べた通りです.そして,その原因が証拠の許容性の判断と事実認定とをともに裁判官独りに負わせている制度そのものに由来することも既に指摘した通りです.
 陪審裁判では裁判官は事実認定という仕事から解放されます.したがって,証拠の許容性の判断に精力を集中できますし,陪審員が質の悪い証拠に牽きずられないように証拠能力の判断を厳密に行うことが期待されます.陪審制度の国アメリカでも,陪審ではなく裁判官による裁判が行われることがよくありますが,裁判官による裁判の場合には,日本の場合ほど極端ではありませんが,やはり「証拠法の形骸化」現象が起こっています.

(4) 予断によらない,公正な事実認定
 日本の裁判官の大部分は,前述のように,被告人は有罪であるという予断をもって裁判を行っています.しかし,このような裁判官を裁判から排除しようとしてもほとんど不可能です.裁判官の忌避制度がありますが,忌避が認められることは絶無に等しい状態です.
 陪審裁判の公判は陪審員選任手続から始まります(第三章参照).その手続のなかで,事件について予断を持った人や被告人に偏見を抱いている人は陪審から排除される仕組みになっています.また,検察官や弁護人,裁判官からの質問を通じて,当事者双方の言い分や「無罪の推定」とは何かを陪審員は学びます.陪審員にとって有罪無罪の決定をすることは,裁判官にとってのそれのようにルーティンではあり得ない のです.
 陪審員は職業裁判官と比べて有罪判決を出すことに慎重です.戦前の日本の陪審裁判の実績(無罪率約17パーセント)からも言えることだと思いますが,アメリカやフランスなどでの研究によると,これが世界的に言える現象であることが明らかです.アメリカでもっとも広範に行われた職業裁判官と陪審裁判との比較研究であるシカゴ陪審プロジェクトの報告書(Kalven & Zeisel, The American Jury, 1966)は次のように述べています.
 「政府が合理的な疑いを超える程度の証明をしたときにのみ有罪とされるという原則に社会が忠実であろうと欲するならば,それは陪審制を採用することによって促進されるであろう」

(5) 地域社会の常識に根ざした判断
 職業裁判官は極めて特殊な階層に属する人たちです.この意味では,職業裁判官の判断が時としてわたしたちの常識とずれてしまうのは当然かもしれません.陪審は「地域社会の公正な代表者」であることが期待されます.できるだけ多くの階層,職種の人々が陪審員として裁判に参加することが期待できるのです.個々の陪審員はそれぞれ特殊な階層の特殊な価値観や道徳感に支配されているかもしれませんが,評議室での討論と説得の過程を通じて公正で常識的な結論が導かれることを,わたしたちは望みうるのです.
 極限的な場合には,陪審は,「常識」に基づいて「非常識な」法律を無視してしまうこともあり得るのです(ジューリー・ナリフィケーションと呼ばれるものです). たとえば,ある公害病の患者が,公害の発生源と見られる企業に交渉を求めたのに,企業が頑なに交渉を拒みづけ,ガードマンを雇ってその患者を排除するというようなことが度重なった後に,ついに暴力事件に発展し,その患者が傷害罪で起訴されるという事件がありました.日本の裁判所は,この被告人に有罪判決(執行猶予付の罰金)を言い渡しました(二審は被告人の控訴を容れて,検察官の公訴提起が公訴権を濫用したものであったという理論で公訴棄却としましたが,最高裁は公訴権濫用論の適用を否定しました).この事件などは,難しい理論を使わなくても陪審裁判では比較的容易に無罪になったと思われるのです.

(6) 裁判への人々の関心を高める
 陪審制の国アメリカでは,裁判とか法廷というのは普通の市民にとっても非常にポピュラーな存在です.法廷で弁護士や検察官がどのようにして証人尋問をしたり異議を述べたりするのか,ということについて市民はイメージを抱くことができます.日本では刑事裁判が具体的にどのように行われているのかについて,普通の市民はほとんど知りませんし,かなりの知識人でも正確なイメージを持っていません.なかには,アメリカの小説や映画と同じような法廷場面が日本でも展開されていると誤解している人もいます.
 この文化の違いは,陪審制の有無によるのです.陪審制の大きな利点の一つは,人々が裁判の手続に関心を持ち,裁判という文化を一部の専門家だけでなく国民全体が共有することを可能にするのです.これは大変重要なことです.多くの国民が刑事司法に関心を持ち,今裁判所で何が行われているのかについて正確な知識を持っているという状況こそ,刑事司法を形骸化させず,民主的制度として運営させ続けていく最大の基盤ともいうべきものだからです.


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